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~日本西洋医学の先駆者 伊東玄朴~

◎業績

  伊東玄朴は、寛政12年(1800)に神埼市神埼町仁比山に生まれ、幼名を「執行勘造」といい、仁比山不動院の玄透法印に漢学を、小渕在住の古川左庵に漢方医学を学びました。19歳で父を亡くし自宅で漢方医として開業しましたが、西洋の新しい医学を志すため、23歳の時に佐賀蘭学の祖といわれる「島本良順」のもとで蘭学を学びました。その後、長崎留学を進められ「鳴滝塾」でシーボルトより本格的に蘭学・西洋医学を学び、学識を飛躍的に向上させました。27歳の時にシーボルトの江戸参府に随行する形で江戸に出て、医者として開業し、当時不治の病といわれていたジフテリアを治し、医者としての玄朴の名は江戸中に広まりました。34歳の時には、江戸において「象先堂」という蘭学塾を開き人材育成にも努め、全国より406名の塾生が学んでいます。肥前佐賀からは上村春庵はじめ44名が学んでいます。
  伊東玄朴の医学的業績の一つに『医療正始』の刊行があります。ビスコフの著書『Grundzüge der praktischen Medizin』の蘭訳本を翻訳したもので、各疾病を詳細に論述した精緻な訳書で実践的な医学書となっています。
  玄朴の医学における最大の業績は、漢方医が主流の中で、蘭方医の立場を公的なものに高めたことです。伊東玄朴は、蘭方医として初めて将軍の侍医に任命されました。また、玄朴のはからいで複数の蘭方医が奥医師となり、幕府内部での蘭方医の勢力を一気に拡大定着させることに成功し、日本の医学会の大きな転換期となります。その後、玄朴は、文久元年に当時の医師の身分の最高位である法印を授けられた。
  玄朴のもう一つの医学的業績は、種痘の普及です。嘉永2年(1849)には、佐賀藩主鍋島直正に建言した牛痘種法により、佐賀藩医の楢林宗健が直正公長男淳一郎に接種し始めて公式に成功します。同年11月には江戸において玄朴が貢姫君に牛痘苗を接種し成功しています。安政5年(1858)には、玄朴を中心とした江戸の蘭方医等により神田お玉ヶ池に種痘所を建設し、牛痘種法による予防医学が本格的に行われます。この佐賀の種痘が全国に広まり西洋医学の普及に大きな役割を果たしています。種痘所は、後に西洋医学所となり、現在の東京大学医学部の前身となります。
  このように、伊東玄朴は日本の近代西洋医学の先駆者の一人として、医学界に非常に重要な役割を担った人物です。

◎年譜
1800年 寛政 12年 1歳 12月28日、神埼郡仁比山村の執行重助の長男として生まれる。幼名は執行勘造という。
1807年 文化 4年 8歳 弟の玄瑞が生まれる。
1812年 文化 9年 13歳 不動院の玄透法印について学問を学ぶ。
1815年 文化 12年 16歳 小渕村の漢方医古川左庵に入門し医を学ぶ。名を桃林と改める。
1818年 文政 1年 19歳 11月、父執行重助没す。自宅へ戻り医業を開く。
1822年 文政 5年 23歳 佐賀蓮池の島本良順に入門し学ぶ。後に、長崎に出てオランダ通詞猪俣伝次衛門に蘭学を学ぶ。
1823年 文政 6年 24歳 シーボルトが来日する。
1824年 文政 7年 25歳 シーボルトが鳴滝に蘭学塾を開き教授を開始する。玄朴も通学し学ぶ。8月26日、母繁没す。
1826年 文政 9年 27歳 シーボルト江戸参府。玄朴も猪俣伝次衛門夫妻、猪俣源三郎、娘照とともに江戸に出る。4月12日猪俣伝次衛門没す。
1827年 文政 10年 28歳 猪俣源三郎からシーボルト宛の封書を預かり、長崎へ向かう。
1828年 文政 11年 29歳 江戸本所番場町に医業を開業する。猪俣伝次衛門の娘照と結婚する。この年の秋、シーボルト事件発覚する。
1829年 文政 12年 30歳 佐賀藩士伊東祐章の子伊東仁兵衛の義弟となり伊東玄朴と改名する。下谷長者町に転居する。9月11日猪俣源三郎没す。
1830年 天保 1年 31歳 長女まちが生まれる。3月シーボルト事件の判決が下る。4月24日師匠の古川左庵没す。
1831年 天保 2年 32歳 佐賀藩医となり、七人扶持一代士となる。
1832年 天保 4年 34歳 下谷和泉橋通御徒町に象先堂を開塾する。
1834年 天保 5年 35歳 佐賀藩の医学寮が設立され、島本良順が寮監となる。
1835年 天保 6年 36歳 『医療正始』初篇三冊を刊行する。
1836年 天保 7年 37歳 御厨玄圭を養子にする。小城藩医堤柳翠、象先堂に入門。
1838年 天保 9年 39歳 フーフェランドが紹介した牛痘法を『牛痘種法編』として翻訳し、佐賀藩主に献上する。
1839年 天保 10年 40歳 9月7日金武良哲が象先堂に入門する。
1840年 天保 11年 41歳 二女はるが生まれる。7月21日象先堂でブリュメンバックの会読会が行われる。
1841年 天保 12年 42歳 大槻盤渓の長女に人痘を接種し成功する。
1843年 天保 14年 44歳 蘭書を翻訳し佐賀藩主に献上する。12月14日佐賀藩主の御匙医となる。
1844年 弘化 1年 45歳 鷹見泉石から診察代やワイン代を受領する。門人の大石良英が佐賀藩主 鍋島直正の側医となる。
1845年 弘化 2年 46歳 佐賀藩主の娘貢姫の療養方となる。玄朴が跋文を書いた堀内忠寬『幼々精義』が出版される。
1847年 弘化 4年 48歳 2月7日、前宇和島藩主娘の正姫に人痘を接種し成功する。佐賀藩主の姫君のお付き医師となる。2月12日佐賀藩主 鍋島直正が玄朴の建言を受け入れ楢林宗建に牛痘苗入手を命ずる。
1848年 嘉永 1年 49歳 大槻盤渓の二女と二男に人痘を接種する。
1849年 嘉永 2年 50歳 6月23日牛痘苗が伝来する。6月26日楢林宗建の三男建三朗等に接種し、善感する。8月7日楢林宗建が佐賀城下で藩医の子らに種痘する。10月2日江戸へ牛痘苗が到来し、11月に玄朴が貢姫に接種し成功する。幕府、奥医師に外科・眼科以外の蘭方を禁ずる。
1850年 嘉永 3年 51歳 玄朴・杉谷雍助らが翻訳した「鉄煩全書」が完成する。
1851年 嘉永 4年 52歳 1月28日三女遊喜が生まれる。佐賀藩が医業免札制度を開始する。
1853年 嘉永 6年 54歳 織田貫斎が長女まちと結婚する。
1855年 安政 2年 56歳 1月、玄朴危篤となるが、3月までに全快する。織田貫斎が紀州藩寄合医師となる。
1857年 安政 4年 58歳 8月15日伊東玄朴を代表とした種痘所設立の儀の願書を幕府に提出する。
1858年 安政 5年 59歳 1月、幕府から種痘所の設置が許可される。5月7日神田お玉ケ池に種痘所を開設する。7月3日玄朴が幕府の奥医師となる。幕府が蘭方の禁を解く。7月6日将軍家定が没す。11月15日お玉ケ池種痘所が神田相生町からの火災により類焼する。
1859年 安政 6年 60歳 9月21日養子玄圭が初お目見え。6月お玉ケ池種痘所が下谷和泉橋に再建される。
1860年 万延 1年 61歳 5月2日養子玄圭が没す。10月14日種痘所が幕府直轄の施設となり、大槻俊斎が初代頭取に就任する。
1861年 文久 1年 62歳 5月8日幕府に新薬製造の儀を建言する。6月、クロロフォルムを麻酔剤に使用し右足切断手術に成功する。10月、種痘所を西洋医学所と改称す。10月27日養子の玄伯と林研海が長崎でポンペに就学する。12月、玄朴が法印に叙せられ長春院と称する。
1862年 文久 2年 63歳 西洋医学所頭取の大槻俊斎が没す。8月21日緒方洪庵が西洋医学所の頭取となる。伊東玄伯と林研海がポンペの帰国に同行しオランダに留学する。
1863年 文久 3年 64歳 1月25日奥医師を免ぜられ、小普請人を命ぜられる。
1867年 慶応 3年 68歳 父 執行重助の50回忌の法事を執行常助に依頼し、金50両を送る。
1868年 明治 1年 69歳 伊東玄伯に家督をゆずり現役を引退する。
1871年 明治 4年 72歳 1月2日伊東玄朴没す。谷中天龍院に葬られる。

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