1800年 |
寛政 |
12年 |
1歳 |
12月28日、神埼郡仁比山村の執行重助の長男として生まれる。幼名は執行勘造という。 |
1807年 |
文化 |
4年 |
8歳 |
弟の玄瑞が生まれる。 |
1812年 |
文化 |
9年 |
13歳 |
不動院の玄透法印について学問を学ぶ。 |
1815年 |
文化 |
12年 |
16歳 |
小渕村の漢方医古川左庵に入門し医を学ぶ。名を桃林と改める。 |
1818年 |
文政 |
1年 |
19歳 |
11月、父執行重助没す。自宅へ戻り医業を開く。 |
1822年 |
文政 |
5年 |
23歳 |
佐賀蓮池の島本良順に入門し学ぶ。後に、長崎に出てオランダ通詞猪俣伝次衛門に蘭学を学ぶ。 |
1823年 |
文政 |
6年 |
24歳 |
シーボルトが来日する。 |
1824年 |
文政 |
7年 |
25歳 |
シーボルトが鳴滝に蘭学塾を開き教授を開始する。玄朴も通学し学ぶ。8月26日、母繁没す。 |
1826年 |
文政 |
9年 |
27歳 |
シーボルト江戸参府。玄朴も猪俣伝次衛門夫妻、猪俣源三郎、娘照とともに江戸に出る。4月12日猪俣伝次衛門没す。 |
1827年 |
文政 |
10年 |
28歳 |
猪俣源三郎からシーボルト宛の封書を預かり、長崎へ向かう。 |
1828年 |
文政 |
11年 |
29歳 |
江戸本所番場町に医業を開業する。猪俣伝次衛門の娘照と結婚する。この年の秋、シーボルト事件発覚する。 |
1829年 |
文政 |
12年 |
30歳 |
佐賀藩士伊東祐章の子伊東仁兵衛の義弟となり伊東玄朴と改名する。下谷長者町に転居する。9月11日猪俣源三郎没す。 |
1830年 |
天保 |
1年 |
31歳 |
長女まちが生まれる。3月シーボルト事件の判決が下る。4月24日師匠の古川左庵没す。 |
1831年 |
天保 |
2年 |
32歳 |
佐賀藩医となり、七人扶持一代士となる。 |
1832年 |
天保 |
4年 |
34歳 |
下谷和泉橋通御徒町に象先堂を開塾する。 |
1834年 |
天保 |
5年 |
35歳 |
佐賀藩の医学寮が設立され、島本良順が寮監となる。 |
1835年 |
天保 |
6年 |
36歳 |
『医療正始』初篇三冊を刊行する。 |
1836年 |
天保 |
7年 |
37歳 |
御厨玄圭を養子にする。小城藩医堤柳翠、象先堂に入門。 |
1838年 |
天保 |
9年 |
39歳 |
フーフェランドが紹介した牛痘法を『牛痘種法編』として翻訳し、佐賀藩主に献上する。 |
1839年 |
天保 |
10年 |
40歳 |
9月7日金武良哲が象先堂に入門する。 |
1840年 |
天保 |
11年 |
41歳 |
二女はるが生まれる。7月21日象先堂でブリュメンバックの会読会が行われる。 |
1841年 |
天保 |
12年 |
42歳 |
大槻盤渓の長女に人痘を接種し成功する。 |
1843年 |
天保 |
14年 |
44歳 |
蘭書を翻訳し佐賀藩主に献上する。12月14日佐賀藩主の御匙医となる。 |
1844年 |
弘化 |
1年 |
45歳 |
鷹見泉石から診察代やワイン代を受領する。門人の大石良英が佐賀藩主 鍋島直正の側医となる。 |
1845年 |
弘化 |
2年 |
46歳 |
佐賀藩主の娘貢姫の療養方となる。玄朴が跋文を書いた堀内忠寬『幼々精義』が出版される。 |
1847年 |
弘化 |
4年 |
48歳 |
2月7日、前宇和島藩主娘の正姫に人痘を接種し成功する。佐賀藩主の姫君のお付き医師となる。2月12日佐賀藩主 鍋島直正が玄朴の建言を受け入れ楢林宗建に牛痘苗入手を命ずる。 |
1848年 |
嘉永 |
1年 |
49歳 |
大槻盤渓の二女と二男に人痘を接種する。 |
1849年 |
嘉永 |
2年 |
50歳 |
6月23日牛痘苗が伝来する。6月26日楢林宗建の三男建三朗等に接種し、善感する。8月7日楢林宗建が佐賀城下で藩医の子らに種痘する。10月2日江戸へ牛痘苗が到来し、11月に玄朴が貢姫に接種し成功する。幕府、奥医師に外科・眼科以外の蘭方を禁ずる。 |
1850年 |
嘉永 |
3年 |
51歳 |
玄朴・杉谷雍助らが翻訳した「鉄煩全書」が完成する。 |
1851年 |
嘉永 |
4年 |
52歳 |
1月28日三女遊喜が生まれる。佐賀藩が医業免札制度を開始する。 |
1853年 |
嘉永 |
6年 |
54歳 |
織田貫斎が長女まちと結婚する。 |
1855年 |
安政 |
2年 |
56歳 |
1月、玄朴危篤となるが、3月までに全快する。織田貫斎が紀州藩寄合医師となる。 |
1857年 |
安政 |
4年 |
58歳 |
8月15日伊東玄朴を代表とした種痘所設立の儀の願書を幕府に提出する。 |
1858年 |
安政 |
5年 |
59歳 |
1月、幕府から種痘所の設置が許可される。5月7日神田お玉ケ池に種痘所を開設する。7月3日玄朴が幕府の奥医師となる。幕府が蘭方の禁を解く。7月6日将軍家定が没す。11月15日お玉ケ池種痘所が神田相生町からの火災により類焼する。 |
1859年 |
安政 |
6年 |
60歳 |
9月21日養子玄圭が初お目見え。6月お玉ケ池種痘所が下谷和泉橋に再建される。 |
1860年 |
万延 |
1年 |
61歳 |
5月2日養子玄圭が没す。10月14日種痘所が幕府直轄の施設となり、大槻俊斎が初代頭取に就任する。 |
1861年 |
文久 |
1年 |
62歳 |
5月8日幕府に新薬製造の儀を建言する。6月、クロロフォルムを麻酔剤に使用し右足切断手術に成功する。10月、種痘所を西洋医学所と改称す。10月27日養子の玄伯と林研海が長崎でポンペに就学する。12月、玄朴が法印に叙せられ長春院と称する。 |
1862年 |
文久 |
2年 |
63歳 |
西洋医学所頭取の大槻俊斎が没す。8月21日緒方洪庵が西洋医学所の頭取となる。伊東玄伯と林研海がポンペの帰国に同行しオランダに留学する。 |
1863年 |
文久 |
3年 |
64歳 |
1月25日奥医師を免ぜられ、小普請人を命ぜられる。 |
1867年 |
慶応 |
3年 |
68歳 |
父 執行重助の50回忌の法事を執行常助に依頼し、金50両を送る。 |
1868年 |
明治 |
1年 |
69歳 |
伊東玄伯に家督をゆずり現役を引退する。 |
1871年 |
明治 |
4年 |
72歳 |
1月2日伊東玄朴没す。谷中天龍院に葬られる。 |