神埼まちあるき(5) 蒙古屋敷と大蛇伝説の里を訪ねる
2012/10/22
神埼まちあるき 《かんざきを歩こう 散策コース・マップ》
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神埼まちあるき Vol.09は、神埼町尾崎地区を訪ねます。
尾崎地区には、旧石器時代から幕末・近代までの多くの遺跡や伝説・民俗芸能が伝えられています。尾崎の地名は、太治2年(1127)の『櫛田社大宮司職補任状案』に櫛田社大宮司が支配・管理する宮社に「小﨑宮三社同前」とあります。
日の隈山と日の隈公園
日の隈公園がまちあるきの起点となります。
江戸時代には肥前七隈と呼ばれる景勝の地であった日の隈山は、西郷富士とも呼ばれる円錐形の優美な山です。その麓に日の隈公園が整備されています。
『肥前風土記』には、烽火が置かれたことも記されています。
*日の隈公園は、駐車場・トイレさらにはグランドや遊具・体育館も整備されています。
日の隈公園 | 烽火のモニュメントと日の隈山 |
山麓部を一直線に走る「古代官道」
日の隈山の南麓部には、奈良時代に大宰府より肥前に至る古代官道「西海道」が整備されていました。
市内では、国営吉野ヶ里歴史公園の北部に位置する日吉神社北の切通しを通り、馬郡地区の北端切通しより、川寄地区の集落内を通り平山地区の屋起屋前に至ります。西へは、岩田台場跡の南にある切通しより大和町の肥前国府の南へ至っています。
特に、岩田台場跡の西に位置する祇園原地区には、低丘陵を伐り通した幅約8m~10m道路跡が現在も残されています。
平山地区の旧道を通る古代官道 | 祇園原地区の切通し状の古代官道跡 |
佐賀藩砲術訓練場「岩田台場跡」
平山地区より岩田地区へ至る旧道を西へ行くと、前方に鬱蒼とした森が見えてきます。
佐賀藩・蓮池藩の砲術演習場として設置された「岩田台場」です。
岩田台場は、元禄年間に設置され、元禄10年(1697)に三代藩主綱茂に大筒改を行い、手明鑓に抱筒打ち、足軽には置筒の放出を行わせています。
佐賀藩の砲術訓練場 岩田台場跡 |
四代藩主吉茂は、安永4年(1707)に新しく八百目砲の試射を岩田台場で行い、享保3年(1718)には新火薬の製造も岩田台場屋敷で行っています。
「矢道」地名 |
約5町南にあたる「鉄砲座」跡 |
岩田台場が最も使用されたのは、10代藩主直正の時で、蘭学研究を進め天保8年には大オランダより鋼鉄製のカノン砲とモチール砲を購入しています。直正時代の岩田台場での演習・実射は、天保8年(1837)の大砲実射、天保10年(1839)に蓮池藩大砲遠射、天保11年(1840)には武雄藩の鍋島十左衛門による蘭方術演習などが行われています。
演習は、日の隈山を的場として、南方の三町・八町・十二町の距離より撃たれ、「鉄砲座」が置かれていました。現在の市道日の隈線沿線には、「矢道」と呼ばれる地区や「鉄砲座」があった場所が伝えられています。嘉永6年(1853)の記録では、岩田大台場の大砲打揚の地広めを、五町八反の場所で3ヶ所、十二町のところで1ヶ所、二十町の所で一ヶ所行われています。
佐賀本藩の演習場は、嘉永7年(1854)に岩田台場から小城藩領の大久保に大砲演習場が置かれ、岩田台場は蓮池藩など小規模な演習となります。
岩田台場屋敷には、火薬庫や役宅・番宅などが置かれ、砲術の指導には慶安4年(1651)より原家が当たっています。岩田台場屋敷の南には、この原家の墓所があり、四世原就本の墓碑が残されています。
この岩田台場跡は、九州・山口近代化遺産群として世界遺産登録への佐賀藩の近代化遺産の重要な遺産の一つと位置づけられています。
| 左上:原家墓所遠景 右:原就本の墓碑 左下:原家墓所 |
帯隈山神籠石と古代神埼の役所跡
尾崎地区の岩田・祇園原地区には、多くの遺跡が見られ、古代神埼郡 岩田台場屋敷跡より旧道を西へ行くと、岩田丸山古墳が見えてきます。
自然の丘陵と考えられる円形の丘頂上部に、長さ約20mほどと考えられる前方後円墳と推定されている古墳です。内部主体や墳形・年代などは調査が行われておらず不明です。
また、北西部の佐賀市に跨る円錐形の山である帯隈山には、約2.5㎞に渡る列石と水門が築かれた国史跡帯隈山神籠石が位置しています。
岩田丸山古墳(前方の森) | 佐賀市に跨る帯隈山神籠石 |
岩田丸山l古墳の南水田部には、古代の神埼郡の役所的な施設と考えられる塚原遺跡・小林遺跡が発掘調査により確認されています。また、両遺跡の間には、丘陵を伐り通した古代官道が東西に走っています。
調査では、官道の北脇に大型の建物跡が位置し、帯隈山方向の北西にに延びる道路跡とその両側に柵に囲まれた区画が確認されており、神埼郡と佐賀郡の境に位置する役所跡ではないかと考えられています。また、塚原遺跡の調査では、旧石器時代の石器や縄文時代早期の土器、さらに、弥生時代の甕棺墓なども確認されています。
役所的な施設が確認された塚原遺跡 | 塚原遺跡の南を東西に走る古代官道 |
尾崎焼の起源を伝える伝蒙古屋敷と蒙古合戦恩賞地
尾崎西分地区の冠者神社 |
尾崎西分地区の北端には、陽成天皇第1皇子元良親王が、明神の御神体を自作され神埼郡尾崎村に勧請されたことに始まる冠者神社が祀られています。文永三年(1266)に冠者神社は神埼郡司八谷兵衛宣村、神勅により神埼郡﨑村に移したと伝えられています。
地区の南西部には、蒙古合戦の際捕虜となった蒙古人を連れてきたとされる「蒙古屋敷」と呼ばれる地区が伝えれています
尾崎の地は、皇室領荘園神埼荘内に位置し、蒙古合戦の恩賞地として永仁5年(1297)河野通有に、「神埼庄内小崎郷内荘餘残分 同庄内荒野分」を給付されています。この河野通有は弘安の役の際の戦功と活躍で知られている人物で、伊予国御家人で、弘安8年 (1285)には筑前国弥冨郷の替所として「肥前国神崎庄内小崎郷」を宛が
蒙古屋敷伝承地に建つ樟大明神と大楠 |
われています
。これらの記録より、尾崎と河野氏の結びつきが確認 され、伝承として伝えられている「蒙古屋敷」の地は、尾崎の地に領地を得た河野氏に関する屋敷地ではないかとも考えられます。
現在、蒙古屋敷の伝承地は、南北方向の土塁状の高まりが残るだけで全体構造は不明です。周辺部の畑には、非常に多くの土器が散乱しています。
尾崎西分の西方より望む「蒙古屋敷」跡 |
また、蒙古屋敷と共に尾崎地区には蒙古とのかかわりを伝える尾崎焼・尾崎人形が伝えられています。地元では、蒙古屋敷に住まわせていた蒙古人より焼きものと鳩笛などの人形作りを教えられたと伝えられています。尾崎焼は廃れてしまいましたが、「ほーほー」と鳴る素焼きの鳩笛は、現在も受け継がれています。
尾崎焼の起源は明らかではありませんが、「蒙古屋敷」に伝わる蒙古人が焼きものづくりを伝えてとする説や『葉隠』には豊臣秀吉が名護屋に向かう途中、大和の尼寺付近で土器に並べた握り飯の接待を受けました。秀吉はその握り飯と土器を大変褒め、土器の製作者家永彦三郎を名護屋の陣中に呼び、御朱印を賜ったとあります。その家永彦三郎は、後に柳川に移住し、弟の長ヱ門は佐賀高木瀬で焼物を営んでいた。尾崎にはその子孫が移り焼物をはじめたと伝えられています。
尾崎西分地区では、尾崎焼の復興と尾崎人形の普及を目指して取り組みが始まっています。
尾崎焼の風炉 | 尾崎人形 |
地名起源を伝える大蛇伝説
尾崎地区には、現在の集落地名の起こりを伝える「大蛇伝説」が伝えられています。
「蛇取橋ちゅうてありますね。そこで蛇を取った。そいから、少し北に小さい石(ほこら)があるでしょうが。あすこに埋めてあるちゅう、聞き伝えです
それから、逆(さか)さになるでしょうが。伏部、そこに柏の木でふすべたちゅうごた話を聞くですが、苦しがった蛇はのたうって今の西郷学校にきば、逃げたので、蛇貫堤(へぼぬきでえ)ができたちゅう話です。
そいから、尾崎、尾崎は大蛇のその、尾のあっとかちゅう所をですね、部落の名前になっている。
花手、花手は大蛇の鼻があったちゅうような、そういうようなことを小さい時から聞きよった」
『神埼町史より』
蛇塚(自然石立石と竜神塔が祀られる) | 中池江川に架かる蛇取橋 | 中池江川の蛇貫堤 |
この伝説は、城原川より西に開削された中池江川とその南部一帯に形成された環濠集落なども含めた、中世に遡る土地開発と治水・利水の歴史を、大蛇に例えて伝える伝説と考えられます。
大蛇の尾があった「尾崎」 | 大蛇の鼻があった「花手」 | 柏木をふすべた「伏部」 |
大蛇退治を話合った「野寄」 | 柏木を採った「柏原」 | 蛇塚に祀られる石塔 |
尾崎土生遺跡を望む |
花手・伏部地区より、市道日の隈線を日の隈山目指して北上します。
花手地区の北部水田一帯には、弥生時代から中世にかけての集落跡である尾崎土生遺跡があります。昭和56年度の発掘調査により大規模な集落跡が確認されています。
野寄地区を過ぎると前方に工場の倉庫が見えてきます。
この一帯が、佐賀藩砲術演習施設である日の隈山より五町南に置かれた「鉄砲座」があった位置になります。
現在、鉄砲座の正確な位置や構造は不明ですが、北部には「矢道」の地名や「岩田台場屋敷跡」が残されるなど、日の隈山を的として行われた砲術演習場の様子を知ることができます。
*尾崎地区のまちあるきコースは、日の隈公園で終了で、約8.5kmの行程です。
なお、日の隈山へは車で登ることができます。頂上からの神埼市南部地区と朝倉・久留米方面から有明海と雲仙岳、さらに西は佐賀市と白石・鹿島方面までの佐賀平野の雄大な眺望が望めます。
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