神埼まちあるき(6) 海辺の弥生集落と古代の津を訪ねる
2012/11/20
神埼まちあるき 《かんざきを歩こう 散策コース・マップ》
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神埼まちあるき№6は、千代田町詫田・下板・渡瀬、神埼町倉戸・荒堅目地区一帯に残されている有明海からの対外交流の歴史を物語る弥生時代の遺跡と古代・中世の津を訪ねます。
有明海を介した渡来系弥生人の集落
神埼市南部地区の国道264号線沿線には、弥生時代の貝塚を伴う集落跡が分布しています。その中で、千代田町詫田に所在します詫田西分遺跡は当時の有明海海岸線付近に営まれた拠点的な集落跡と考えられています。
昭和57年から始まる県営ほ場整備事業に伴い発掘調査が行われ、非常に重要な成果がえられています。この遺跡は、貝塚を伴う集落跡であり、通常では残存しない木製品や骨などの有機質の遺物が多量に出土しています。祭祀用に用いられたと考えられる鳥形木製品・木剣・木戈や銅鐸を模した鐸形土製品などが見つかっています。
また、甕棺墓・土壙墓に埋葬された弥生人の墓地も調査されています。貝塚を伴うため、非常に良好な状態
| 詫田西分遺跡の鳥形木製品 千代田町文化財調査報告書第2集 『詫田西分貝塚』より |
で多数の人骨が確認されてました。この人骨の人類学的な研究により、詫田西分遺跡の弥生人のほとんどは、渡来系形質を持つ人たちであったことが分かってきています。
有明海を介して、この地に新たな技術や文化と共に大陸から多くの人たちが訪れ、在来の人たちと生活をしていた様子を知ることができる遺跡です。
神埼市の南部地区に分布しています弥生時代の遺跡は、その多くに貝塚を伴っています。また、当時の最先端の文化と技術が、多くの渡来人と共に流入し定着した地であり、その後の吉野ヶ里を中心とする「クニ」が成立していったと考えられています。
応神天皇を祭神とする古社 若宮神社
応神天皇を祀る若宮神社 |
国道を東へ向かうと、道路南に若宮神社が見えてきます。
応神天皇を祭神とし、建久8年(1193)創建と伝えれてる古社です。現在の社殿は、拝殿の棟札より文政8年(1825)に建立されたことが分かります。
境内には、市重要文化財に指定されている寛文2年(1662)造立の石造肥前鳥居が残されています。銘文には星野小左衛門繁房ほかが願主となり石工は冨永新五左衛門重吉とあります。
また、神殿外壁の大瓶束には木彫の鬼が飾られています。
若宮八幡宮の肥前鳥居 | 神殿に飾られる鬼 |
神埼荘の南部を鎮める「高志神社」
高志地区と高志神社へ至る参道 |
詫田西分の北東に位置する高志地区には、素盞鳴尊・日本武尊・稲田姫命を祭神とし、白角折神社、櫛田宮と共に神埼荘三所大明神のひとつである高志神社が鎮座しています。記録による初現は寛元2年(1244)の遠眞施行状に「高志・櫛田両社大宮司職事」とあります。
神埼荘の総鎮守櫛田宮の東脇を南流する馬場川が田手川と合流する地点に位置し、神埼荘の南部地区を鎮める神社です。
周囲を堀により囲まれた環濠集落内に位置し、境内には本殿・拝殿の社殿と能舞台や明治に寄進された神門のほか多数の石造物が残されています。
高志神社 | 高志神社境内に建つ能舞台 |
享保5年(1720)造立の石橋 |
参道の明治29年(1896)建立の石鳥居をくぐると、神門前に石橋が残されています。
江戸時代の享保5年(1720)に造立された石橋で、天明5年(1785)と寛保3年(1743)の銘が確認され補修や改修が行われています。
造立には、砥川の石工である平川幸之允があたっています。この石橋は、保存状態も比較的よく、造立年や石工名が分かる貴重な石造物です。
また、高志地区には、鷺流狂言の「半銭」を唯一伝え、佐賀県重要無形民俗文化財に指定されてる「高志狂言」が受け継がれています。現在も保存会が組織され、子供たちにも継承されています。地区内には、「神楽田籠」「笛の橋」などの地名が残されています。
毎年、10月12日の高志神社の秋祭りに狂言が奉納されています
高志狂言 | 子供たちによる高志狂言の伝承 |
海浜地区を治めた有力者の墓
銅剣と銅剣の切先 千代田町文化財調査報告書第27集『高志神社遺跡』より |
高志神社がある高志地区には、弥生時代の遺跡も確認されています。
これまでの発掘調査により弥生時代中期の集落跡と墓地跡が確認され、特に高志神社の本殿裏手には多数の甕棺墓が確認されています。
甕棺墓の中には、銅剣が副葬され、さらに、銅剣の切先や石鏃なども出土し、戦闘により銅剣で刺され弓矢で射られて戦死した、この地の有力者の墓と考えられています。
甕棺墓と副葬された銅剣 千代田町文化財調査報告書第27集『高志神社遺跡』より |
神埼荘の「津」 荒堅目・蔵戸
神埼には、興味深い地名が多く見られます。田手川と馬場川に挟まれえた地区には、「蔵戸」という地名があります。鎌倉期には「倉戸郷」、江戸時代には倉戸村と呼ばれ
荒堅目遺跡を南部より望む |
ています。
蔵土の名は、古代の神埼屯倉に属す「蔵部」に由来するともいわれ、
また、『櫛田大明神由緒記』には櫛田宮造営の木材を倉戸津へ船で運んだとあり、当地に「津」が置かれていたことが分かります。
昭和59年に行われた発掘調査では、西に隣接する現在の荒堅目地区の東端部において、多くの井戸跡や柵列・溝跡などが確認され、現在の荒堅目集落位置に柵や溝で区画された鎌倉時代の施設の存在が確認されています。出土遺物には、木簡や帯金具・硯など役所施設などで多く見られる遺物や緑釉陶器や墨書土器なども多数見つかっています。
まだ、詳細は分かっていませんが、文献記録や発掘調査の成果と地形等より、蔵戸と荒堅目一帯に神埼荘の「津」が置かれていたと考えれています。
この荒堅目遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期より人々の生活が行われており、海を舞台にした漁撈と交易により営まれた集落と言えます。
ほ場整備事業施工前までは、非常に大規模な堀があり、戦前頃までは田手川・馬場川を利用した船による物資の運搬が行われていたそうです。
江戸時代 水運で栄えた渡瀬
田手川と現在の渡瀬地区 |
田手川の東岸に位置する渡瀬は、江戸期には田手川を利用した水上交通の要衝として栄えています。
有明海や筑後川河口での海産物や堀の魚などを捕獲し水産業、が行われ、天草より薪炭を豊後より木材が、50石積船により搬入されていたようです。
トラックを利用した陸上交通の整備により、有明海から田手川を利用した水上交通は衰退していき、当時の船小屋などの施設も見られなくなっています。
詫田郷と詫磨氏
「奥屋敷」の呼称が残る島 |
詫田郷は、神埼荘の郷のひとつで鎌倉期から室町期の郷名です。
正和5年(1316)の詫磨道覚譲状案には、「ひせんの國かんざきの庄くらとのかう、たくたのかうのうち、てんち五丁・やしき八ヶ所・はくち二ヶ所、」は勲功賞として豊後の詫磨直秀が幕府から与えられた土地であったことが記されています。さらに、詫磨氏は天授4年(1378)比丘尼心智から嫡子「いなはのりうはう丸(詫磨武仲)へたくたのやしき」が譲られており、豊後の詫磨氏と詫田との深い関係が伺えます。
現在、詫田東分地区には「奥屋敷」と呼称される地区があり、中世から近世にかけての館跡の存在が考えられます。
詫田東分から詫田西分の南端には、古い形状を保った堀が流れています。堀に囲まれた現在の詫田地区は、標高約2m~3mの低平地に形成された微高地で、弥生時代から人々の生活がはじまり、歴史的にも神埼の玄関口的な重要な地域でした。
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